クスベ【第1話】
「佐島」
呼ばれて、腕を掴まれた。
少し低いところに、頭がある。
タバコのにおいがした。
「どうした」
「歩くのが早い」
「コンパス違ェんだから、当たり前だろ」
「合わせて歩けねぇのかよ」
どん、と軽く腕を小突かれる。
むっとしたトーンの声は、女固有のものだ。
「佐島」
呼ばれて、腕を掴まれた。
少し低いところに、頭がある。
タバコのにおいがした。
「どうした」
「歩くのが早い」
「コンパス違ェんだから、当たり前だろ」
「合わせて歩けねぇのかよ」
どん、と軽く腕を小突かれる。
むっとしたトーンの声は、女固有のものだ。
街はハロウィンの極彩色にあふれていた。
わずかな硝煙の香りと、人の悲鳴をよそに、商店街の音楽は不気味で華やかな音楽を流し続けている。
その不釣り合いさが、事態の異常さを理解させるには十分だった。
経緯は些事で、あまり覚えていない。
コーヒー店でたまたま居合わせただとか、死に損なっていたところに救急車を呼ばれただとか、その後日また喫茶で会っただとか、その程度の偶然が続くうち、情報筋からのうわさで、彼を人殺しだと聞いた。
事の真相はどちらでもいい。
確かめるほどの理由はないし、聞いたところで返事をする男でもないだろう。
だからこうして、廃ビルの屋上で、彼が雪を降らせるのを見るでもなく眺めている。
会う約束があったわけじゃない。たまたまこっちは襲撃が手ぶらで終わり、向こうは夜の散歩中だった。
それが何となく連れ立って、意味もなく屋上にいる。
ただ、良いことでもあったのか、今日の彼は機嫌がよかった。
鬼嶋安吾の性格と能力は、ある程度の下調べが済んでいた。
馬鹿ではないが、集団の定めた法よりは己にとって最適な道を選びがちであるため、輪からは外れる。
根のところ、暴れる機会を求めてやまないんだろう。無意識に騒ぎが大きくなる方を望んで動いているのだとしたら、大したものだと思う。
他人に対して、さして気を配るつもりもないらしく、己があるがまま、不機嫌を隠すことも苛立ちを胡麻化すこともなく生きる。
壊れた自転車を直してくれた恩人の本性を、多摩は知らない。
また同時に、奇妙な縁で顔見知りとなった知人の能力を、佐島は知らない。
独り歩きするのにちょうどよい荷物の重さを考える。
財布。
携帯。
刀。
最初の二つはポケットに入れて、残りの一つは布に包んで背中に提げれば、それで事足りる。
目の前にあるドアは、一生開くことがないのだと思っていた。
自分を心配してくれる両親に申し訳なくて、家事をしたり、食事の買い出しに出たり、庭の掃除をして、狭い世界の中で静かに、生きていこうと思っていた。
外の世界が楽しかったのは知っている。
人としゃべるのは好きだったし、新しいことを知るのも大好きだった。
でもそれも、ある日を境に変わった。
結果、悪いことではなかったと思う。