鰐鮫【第1話】
独り歩きするのにちょうどよい荷物の重さを考える。
財布。
携帯。
刀。
最初の二つはポケットに入れて、残りの一つは布に包んで背中に提げれば、それで事足りる。
「一昔前の板前かよ」
家を出る前に鏡で眺めた自分の姿に、失笑が漏れた。
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朝の通勤ラッシュを超えると、コンビニの仕事は一気に楽になる。
早朝で時間もないのにやたらレンチンを求めてくる客に内心舌打ちしながらつつがなく十時を過ぎれば、訪れるのは暇な大学生ぐらいなもので、今度は昼のラッシュに向けて商品の詰め直しが始まる。
(キリがない)
食器を洗って片付けるのと同じ。いうなれば、家事と同じだ。
食事も生活の根幹を支える人間、食べなければ死ぬわけだから、食事を補給する作業は、永遠に終わらない。
(まぁ、閑古鳥が鳴くより、マシか)
駅の構内に位置するコンビニには、ひっきりなしに人が訪れる。
顔見知りもそれなりにいて、働きにくくもない。「いらっしゃいませ」で始まり「ありがとうございました」で終わる、簡素な関係だけ続けていればいい。
大学生のバイトも、そろそろ自分が放っておかれたいタイプの人間であることを理解してくれていた。
もっとも、最近入ってきた春本は別で「手、どうしたんですか」と要らぬ声をかけてくる。
「あー、昨日包丁滑らせた」
肌色の包帯を巻いていたが、気付かれたらしい。
「え、そんなことあります?」
春本はいぶかしげだった。
「あるよ。それで怪我した」
「彼女からDVとかですか?」
「すげー飛躍するじゃん......いないよ、彼女とか」
「え、キスとかしたことないんです?」
「朝から疲れるから会話のドッジボールやめてくんないかな......」
ため息を漏らすと、春本はそそくさとドリンクコーナーへ移動する。
多少の騒々しさはあれど、佐島の人生は、つつがなく平穏だった。
昨晩のヒリつくような激しさは日光のもとナリをひそめ、今はただ、消耗されるだけの時間がのんべんだらりと続いている。
昼と夜の区別がしゃんとされている生活を、佐島は愛してすらいたのだ。
もっとも、その男が並んだことで、佐島の「日中」は一変する。
ぎくりと一瞬、身がこわばるのが分かった。
「いらっしゃいませ」
声色が変わらないよう努める。
短い黒髪の、小柄な青年。
まだ成人もしていない筋骨に見えるが、実力は知っている。
昨夜一戦、やり合ったばかりだ。
(驚いた、思ってたよりずっとガキじゃんか)
戦った時は、もう少し大柄に見えた。彼の能力のせいで近づけずに離れていたせいもあるが、それでもこれほど小さいのは予想外だ。
「お会計、458円です」
と伝える声は、穏やかだっただろうか。
青年はポケットから財布を取り出し、ふと、手を止めた。
「......お兄さん、手ェ、怪我してんの?」
「おつり、42円です」
「俺さ、昨日、ちょっと悪い奴と、戦ってさ」
まっすぐに、青年はこちらを向いた。
この場合どうするのが正しいのか、佐島は逡巡する。
(おつりは渡さないとダメだよな)
(でもコイツ絶対気付いてる)
(俺が夕べの、辻斬りだって)
方針を固めるのと、青年がこぶしを握るのは同時だった。
もろに顔面で受けることにし、しかし当たる寸前で首を曲げて、勢いを殺す。
派手な音がした。
手ごたえがなかったのだろう、青年はあっけにとられた顔をした。
生憎、こちらのほうがタヌキだったらしい。
「どうしたんですか、お客さま」
やっとの思いでそう言って、立ち上がった。
しらじらしい演技だ。
だが青年は動じず、ひたりとこちらを見据えていた。
「お前、辻斬りだな」
ここまではっきりと口に出されるとは思っていなかった。
(どうした、もんかな)
「何の話ですか」
すっとぼけたそぶりのまま、相手の出方をうかがう。
鰐鮫是斗。
思っていたより、厄介な相手を選んでしまったらしい。
(やっぱり夕べ、首を刎ねて、殺しておくべきだった)
殺意を気取られないよう、呼吸を深くする。
騒ぎになっているのを、誰かが聞きつけてやってくる。
「おい、鰐鮫!」
幸い、彼の先輩がやってきたらしい。
「新人は新人らしくでしゃばるなと言ってあるだろう! 一般人に手を挙げるなんて何考えてるんだ!」
「けどオッサン! こいつ......」
「けどもへったくれもない! まったく......!」
理不尽な説教に、鰐鮫は目をすがめていた。
面白くないんだろう。こちらも助けられたとはいえ、彼の鬱屈には同情がある。
「チッ」
鰐鮫は舌打ちして、こちらをにらみ据えた。
本性を出さずにいてよかったと思う。逆を言えば、彼は大胆に、カマをかけたのだろう。
「12時間後と、言ったろ」
すれ違いざま、囁いた。
「12時間後、またお前を、殺しに行く」
鰐鮫がはっと目を見開くのが分かった。
彼は何かを怒鳴ろうとし、しかしすぐ、上司に腕をつかまれ、人ごみの中に飲まれていった。