祝杯の夜
嫉妬も卑屈もお家芸となって久しい左青鈍からすれば、伊伏麟太郎ほど妬ましい人間もそうそういなかった。
あっけらかんとした笑顔は悩み一つないようだし、深く考えずに他人に好意を振りまくそぶりは確固たる自信の表れにも見えて眩しい。
同じ部屋で四年過ごした後、まとまった金ができたので自分だけマンションへ引っ越そうかと思っていると話した。
するといい年をした男が、恥も外聞も無く嫌がった。
「いやや~~~オニちゃんが居らんとボク起きられへんもん~~!!」
「いい年した大人なら目覚まし使ってくださいよ」
「でも起きられへんもん......」
「遅刻したらしばきますよ」
「それも嫌やなぁ......」
しんみりと呟いたあと、伊伏はちょっと間を開けて
「まぁ、でもオニちゃんがそない言うんやったら、しゃあないか」
と笑って見せた。
それがどこかカラ元気に見えて、後ろ髪をひかれる思いはあった。
それでも数ヵ月にわたって物件サイトを見て探し当てた掘り出し物を逃すつもりは毛頭なかったし、どうせ職場で嫌でも顔は合わせるのだからと自分に言い聞かせて、半月後には寮を引き払った。
「なぁ、遊び行ってもえぇ?」
最後の晩、伊伏はそんなことを聞いた。
(本気じゃないだろう)
と思う。
伊伏麟太郎は善人だ。
陽の当たる場所に暮らすのみならず、こちらにまで光を向けてくる。
別に要らないのに。人の見ていないところで自分に優しくして見せたってパフォーマンスの無駄だ、とひねたことを思うから、自分は彼のように明るく生きられないのだろう。
「生活が落ち着いたら構いませんよ」
他人行儀にこたえると、伊伏は
「約束やで」
と笑って見せた。
そして、お別れだからと旨い酒屋に左を案内した。
「下戸とちゃうんやろ」
「ええ。伊伏くんは日本酒ダメですよね」
「うん。よぉ覚えてくれとるね」
「バディ付き合いも四年目ですし」
店の暖簾をくぐる。
常連らしい伊伏は、店主の歓迎に元気に手を振って見せた。カウンターかと聞かれ、今日は個室でと返事をするのを聞くでもなく聞く。
人の多い酒場は苦手だった。誰も彼も楽しげに見えて、いっそう自分がみじめになる。
(出ていく俺へのあてつけか)
だがそんな意地悪ができる人間なら、とっくの昔に嫌いになれて、もっと楽にいられただろう。
(そんな人間じゃないんだ、こいつは)
思えば二人で飲むのは初めてだった。
いつも伊伏は明るい方の同僚に囲まれていたし、自分はくだらないクダをまく性分をわかっているから、酒は飲まずにさっさと退散していた。
「じゃあ、オニちゃんの門出に乾杯」
「大げさな」
ビールのジョッキを合わせる。
お通しの揚げ出しは、確かに旨かった。
「......なんで、飲む気になったんです?」
「え、ゆーてるやん。オニちゃんの門出やし、お祝い」
「部屋で言えば済むじゃないですか」
「でもオニちゃんとサシで飲んだことあらへんやったし」
同じことを思っていたらしい。不思議な感慨と共感を覚えたが、口にするほどでもないと思えた。
すぐ店員がやってきて、注文を聞く。
あれこれと相変わらず人並み以上の量を頼んで、伊伏はこちらに向き直った。
目を合わせるのは、まだ少し難しい。それを理解して、伊伏はあまりこちらを見ないようにして話す。
「なんか変やなー。明日寮に帰ったら、オニちゃんおらんなっとるんやろ」
「少しは広くなりますよ」
「また違う人入ってくるんちゃうかなー」
「まぁ、そうでしょうけど」
落ち着かなくて、手をさする。さっさと酒を飲んでしまおうと思って、ジョッキを手に取る。
そうするうち、一杯二杯と、酒が進んだ。
「結構飲むんやねぇ」
伊伏は意外そうに、それでも咎めるでもなく、空になったグラスを眺める。
ハイボールを注文したところで、ふと、言葉がこぼれた。
「......伊伏」
「なん?」
「......君がずっと、眩しかった」
伊伏が目をしばたかせるのが分かった。
「僕の笑顔そないに輝いてしもてた?」
「いやそうじゃなくって」
悪い癖が出そうだと思う。
「クダ、巻くけど」
敬語をやめるのがこんなタイミングなのは不格好だと思った。
それでも言葉が止まらない。
「俺は自分がジメジメ苔むした日陰で生きているのを知っている。だけど、それはそう何度も自覚したいものじゃない。お前のそばにいると、それをずっと、痛感して、」
伊伏がへらへらするのをやめて、じっと黙るのが分かった。
「誤解しないでほしい。伊伏を嫌いだって、話じゃない。嫌いだったらバディなんか続けてないし、俺はもっとさっさと逃げてる。そうじゃなくて」
俺なんかに、と、呻いた。
「......俺なんかに優しくしないでくれ。お前を妬んだり羨んだりするばっかりの、じめっとしたコケ植物みたいな人間なんだよ俺は。お前みたいに才能があるでも愛されるでもない。それを、憐れまないでくれ」
伊伏は黙ったまま聞いていた。
普段のひょうきんさが嘘のように、静かだった。当然だと思う。祝いだと言ってくれた彼の気持ちをここまで無下にした。
「......あんな」
伊伏はしばらくして口を開いた。
「僕はその分、オニちゃんが人より頑張っとるんも知っとるよ」
(どうして、)
手をきつく握る。
「どうして、そんなことが言えるんだよ......」
真っすぐ見据えた伊伏は、ちょっとだけ、困ったように笑った。
「なんでって、僕べつにオニちゃんのこと嫌いやないし。オニちゃんも、僕が嫌いなんとちゃうやろ」
図星だった。
だが突き付けられて平気な言葉でもなかった。
ぐつぐつと煮詰めた嫉妬や僻みは、何の裏返しだったかなど、考えたくはない。
「......伊伏」
「うん」
「お前が、嫌いじゃないんだ」
「うん」
「バディでいてくれて、ありがたいとも、思ってるんだよ」
「うん」
「......最悪だ、ごめん。祝ってくれてるのに」
「別にええよー。僕もこの店また来たかったから」
それ以上は続かない。
トイレだと偽って席を立った先で、壁に頭をつけてじっとしたまま、しばらく動けなかった。
(最悪だ)
口を押えて、俯く。
自分の感情の根など、見たくなかった。
(好きなんだ。伊伏のことが)
芽吹いた感情は、静かな絶望を抱えるのに似ていた。