柳徹の話 2
別に自死願望が人より強いわけでもない。
ただ怪我の治りが早かったのと、昔から運動神経だけはズバ抜けていたから、公務員として勤める中でも帯刀課を選んだんだと思う。
もしこの仕事がなければ、スタントマンでもやっていただろうし、多分その仕事でも悪くはなかった。
誰に命を期待されるでもない、半端者だ。
俺自身、俺の人生になんの期待もしていない。叶えたい夢もなければ、愛されたい人もない。
だから何故だろう、空が俺の腹を貫いたとき、安堵にも似た暖かな境地が、俺の胸を満たして、不思議と泣きそうになった。
目を覚ますと病室の天井が見えた。
初めてというわけでもない、見慣れた殺風景。
バイタルを示す機械は今日も安定して稼働し、ナースコールのためのボタンは、いつも少し遠くにある。
(また)
死に損なった。
そんな風に言ったら、担当医に叱られるだろうか。
だが、別に死にたいわけでもないが、生きたいわけでもない。
死ねない理由なんか何一つ心当たりはないのだ。
誰かがこちらへ歩いてくる気配があった。
話すのは億劫で、眠ったフリをする。
「彼です」
と、誰かが俺を紹介していた。
「柳徹。成績はそう悪くありません。精神的な不衛生さも無く、素行もさほど問題はない」
随分ザルな調査だと思ったが、狸寝入りのせいで嘲ることもできない。
耳だけそば立てていると、男の声は報告を続ける。
「優秀な捜査官ですよ。我が身を投げ打ってでも、監察官を守り通す。きっと人一倍、責任感が強いんでしょう。彼は臆さず、逃げ出さない」
悪い冗談だ。
それとも、俺の組んだ監察官どもは、ひどい偽善者の集いだったんだろうか。
実態を知らずに、みんな適当な綺麗事を並べたとしか思えない。
いい加減起きてやろうかと思っていると、不意に誰かの手が伸びてきて、俺の髪を優しく撫でた。
「それで死んでしまっては、元も子もありませんね。可哀想な子だ」
妙齢の男の声だった。
男の手からは、ハンドクリームの甘い匂いがした。ラベンダーだ。
彼の甘い声は、囁くように耳をくすぐった。
「きっと、生き方が分からないんですよ」
男の手は、柔らかに俺の頬に触れた。
「たった1週間の縁のために、命を投げ打つ覚悟なんか無いでしょう。それでもこんな怪我をして平気で笑っているのは、きっと、何かが、この子に足りていないんです」
ぞくりと、背筋が震えるのがわかった。
俺の、一等奥に触れる言葉だ。
指先が、俺の縫合痕を辿る。
それ以上近寄らないでほしいのに、心が戦慄くように崩れそうなのがわかった。
「何のために生きていいのか、分からないんでしょうね」
頬を撫でる手は優しかった。もっとずっと、触れられていたいとすら思うぬくもりだった。
男の手は俺の目元を撫でた。自分が泣いていたことを、遅ればせに知った。
「では、お任せできますか?」
最初の男の声が無遠慮に尋ねた。
「ええ」
柔らかな声が答えた。
「怪我が治ったら、また伺います。その後また、書類の支度を」
「承知しました」
男たちの足音が、遠のいていく。
きっとあれが、俺の新しいバディなんだろう。
傷に触れ、心に踏み込み、知った顔をして語る、優しい声の男が。
寝返りを打つ。
心臓はまだ、早鐘のように鳴っている。
(ああ、嫌だな)
触れられた頬が、傷が、まだ熱い。
喉の奥が焦げるような、苦しさがあった。
枕に顔を埋める。
生き方が分からない? 彼の言うことは尤もだった。
繰り返すが自死願望なんて俺には無い。あるならとっくにやっている。
それでも存(ながら)えようと思えないのは、やっぱり、俺が。
(生き方が分からないなんて、放っておいて、くれれば良いのに)
きつく、目を閉じる。
鼻の奥にまだ、ラベンダーのハンドクリームの匂いが、絡むように甘く残っていた。